シングルマザーになってから、
いろんな言葉に傷ついてきました。
「ひとりなの大変だね」
「お父さんいないのかわいそう」
「仕事忙しくて子どもが可哀想」
でも、いちばん胸に刺さったのは、
自分の子どもに言われた “その一言” でした。
今日はその日のことと、
そこからどう気持ちを立て直したのかを書きます。
■あの日、突然言われた「お母さん可哀想」の一言
夕飯の片付けをしながら、
子どもがテレビを見ていた時間。
ドラマの中の家族シーンを見ていた子が、ぽつりと
「ねぇママって…可哀想だよね?」
と、何でもない顔で言った。
“可哀想”
という言葉が、
皿を持つ手を止めさせた。
心が一瞬で凍って、
息が止まる感覚になった。
■子どもは悪気がない。分かってる。でも刺さる。
子どもはただ思ったことを言っただけ。
誰かを傷つけようなんて思っていない。
それでも刺さった理由は、
私自身がずっとそう思っていたから。
- シングルマザーは可哀想
- 子どもにも負担をかけている
- 自分は足りない母親
- 世間から見て劣っている
心のどこかで私が持っていた“私への評価”を
子どもの言葉がそのまま突いてきた。
真正面から言われたような気がして、
心がぶるっと揺れた。
■“怒っちゃいけないのに怒りが湧いた”あの瞬間
罪悪感より先に出てきたのは
少しの怒りだった。
「可哀想って何?
ママだって必死でやってるのに」
心の中で叫びたくなった。
母親なのに。
理解ある返しをしなきゃいけないのに。
ちゃんと答えたいのに。
子どもはただ言っただけ。
なのに私のほうが勝手に傷ついて、勝手に揺れて、勝手に涙が出た。
■この言葉の裏にある“二つの気持ち”
① 子どもなりの優しさ
“可哀想”=“ママ大変だよね”の意味でもある。
子どもなりに状況を理解しようとして、
自分の言葉で表現しているだけ。
② 私が抱えていた自己否定
言われて傷ついたのは、
私の心の底にあった
「私は可哀想なんだ」
という感情を見破られた気がしたから。
この二つが重なると、どんな強い母親でも崩れる。
■私はなんて返したのか
涙がこぼれそうで必死に声を整えて、
こう返した。
「ママはね、大変なときもあるけど、
あなたと一緒にいられるから可哀想じゃないよ。」
これが正解だったかは分からない。
でも、これしか言えなかった。
子どもは
「ふーん。じゃあよかった」
と言って、またテレビに戻っていった。
子どもは“深刻な問題”と思っていない。
ただ思ったことを言っただけ。
だからこそ、
母親だけが深く受け止めてしまう。
■その夜、ひとりで泣いた理由
子どもが寝た後、
お風呂の湯気の中で静かに泣いた。
傷ついたんじゃなく、
張り詰めていた糸が切れたんだと思う。
シングルマザーという肩書に、
私は知らないうちに“可哀想枠”を自分で足していた。
あの日の子どもの一言は、
それを鏡みたいに映してきただけ。
■次の日から、私は“可哀想の定義”を変えた
泣いた翌朝、
朝日が差し込む部屋で思った。
「可哀想って、誰が決めるんだろう」
世間?
ママ友?
ドラマの家族?
SNSのキラキラ?
違う。
私が決めていいんだ。
そこから私は、
“可哀想”の意味を勝手に変えた。
- 大変でも頑張ってる → 強い
- 子どもを一人で育てている → かっこいい
- 毎日崩れそうなのに立っている → すごい
- 泣いても立ち直る → 頑張ってる証拠
これを心の中で繰り返した。
すると、
子どもの「可哀想」が
“あなたはよく頑張ってるよ”
に聞こえるようになった。
■あれからしばらくして、子どもが言った一言
数ヶ月後、子どもが突然こんなことを言った。
「ママはひとりで色んなことできるから、
すごいと思うよ。」
あの日の言葉は、
ただの通過点だった。
子どもはちゃんと分かっている。
毎日見ている。
私たちが倒れそうになりながらも立っている姿を。
■まとめ:あの“可哀想”は、母親への否定じゃない
あの一言に傷つくのは、
あなたが弱いからじゃない。
あなたがずっと頑張ってきた証拠。
そしてあなた自身が自分を可哀想だと思いたくなかった証拠。
でも本当は違う。
ひとりで戦って、
ひとりで守って、
ひとりで愛して、
ひとりで立ち続けている母親は、
“可哀想”なんかじゃない。
誰より誇らしい存在です。
どうか、自分のことを
少しだけ優しく見てあげてほしい。
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